
見たいもの
私は遅めの朝食を摂った。妻はまだ眠っていた。日曜日だった。猫はバスルームに閉じ込 められていた。壁には殴り書きの文字が太く刻まれていた。「くたばれ×××! くたば れ×××!」。昨夜の夢の続きを、私はたどろうとした。熱いコーヒーを啜りながら。し かし、道は途中で途切れていた。私は溜息を吐くでもなく、壁の文字を見遣った。誰が刻 んだんだろう? 「くたばれ×××! くたばれ×××!」。雪男が隣に腰掛けていた。 この文字に見覚えはあるかね? 彼は首を振って否定した。誰が刻んだんだ? トースト を齧り終え、私はバスルームを開放した。二匹の猫たちが出て来て走り去った。妻はまだ 眠っていた。そろそろ起きて欲しい時刻だった。先週買ったばかりのセダンで、我々はド ライブに行く予定だった。我々。私と妻と雪男と熊。猫たちは留守番の予定だった。私は ダイニングに戻った。キッチンでは熊が林檎の皮を剥いていた。ダイニングのテーブルで 雪男は煙草を吹かしていた。一本もらえないか? 彼はジッポの火を差し出した。「くた ばれ×××! くたばれ×××!」。よくあること。よく目にするもの。私はふうっと煙 を吐いた。TVではアルゼンチンがサッカーの試合をしていた。(向うは今が夜なのだ。) それが、たぶん日曜日の朝に起きたことのすべてだった。そして、それ以上でもそれ以下 でもなかった。 |
漕手
水面は朝の輝かしい光を弾いた。オールには確かな手応えがあった。彼はボートの艫に 座り、ぼんやりと煙草を吹かしていた。寝覚めたばかりの目は虚ろだった。その視線は 遠方に注がれ、何も見ていないようだった。私はオールを漕ぐ両腕に力を込めた。秋の 朝の空を鳥が過って行った。ボートはゆっくりと、しかし確実に対岸へ向けて進み、湖 面には静けさだけがあった。光あれ、と誰かが言った。そこに光があった。世界は複雑 ではなかった。空気は澄み渡っていた。彼は片腕の袖を捲り、その腕を水に浸した。冷 たいだろう? ああ。魚が跳ねた。彼は咥えていた煙草を水に捨てた。よくあることさ。 私は両腕に力を込め続けた。びくびくと痙攣する。よく痙攣する。ああ。息が上がった。 変わってくれないか? 我々は位置を換えた。私は胸のポケットから煙草を取り出し、 口に咥えた。彼はオールを漕ぐのがとても下手だった。よく空回った。少年が成長する。 俺はあんたみたいにマッチョにはなりたくない。顎鬚がざらざらした。がしゃん。交通 事故。よく空回った。彼はオールを漕ぐのがとても下手だ。壁があり、こんな文字が太 く刻まれていた。「くたばれ×××! くたばれ×××!」。私は見てきたものを、彼に 語った。オールには生き生きとした手応えがあるだろう? ちゃんと潜らすんだ。そう だ、それでいい。俺の言うことだけを聞いてりゃいい。喝采に包まれ、あるいは毒舌を 浴びせられ、この世の煉獄をあんたは近い将来経験する。そのときゃオールの手応えを 思い出すんだ。生きている水を。水面は朝の輝かしい光を弾く。オールには確かな手応 えがある。「くたばれ×××! くたばれ×××!」。壁の文字。壁の文字をいつかやが て彼も見上げる。少年は成長するだろうか。ボートはゆっくりと対岸に向かう。びくび くと、視界はひどく痙攣した。私は艫に座り、目を瞑った。彼の下手なオールの水を打 つ音が、耳に届いた。 |
「恐慌」と書いて、佐伯啓思が売れるよ。
某京都大学の某佐伯啓思、この人は保守主義として有名だが、 なんでかなー、マルクスが嫌いなのにグローバリズムも批判している、 いわゆるアダルト右翼なのである。 この前も京都新聞で(私にも新聞を取るくらいの余裕はある!)、 「マルクスという亡霊」という文章を書いていたのだが、 その内実は昨今の金融不安に対する、 資本主義者側からの「正しい」警告なのである。 (ちなみに、マルクス価値論の解釈がまるっきし間違っていた…。) さて、ダウとかトピックスとか、 貧乏な私には無縁な世界だ。 よくわからんがとても大変らしい(本当にわからない!)。 『「恐慌」と書いて、佐伯啓思が売れるよ。』という一行を、 今夜夕刊を読んでいて思い付いた私は マルクスやエンゲルスが好きだ。 不況や、まして「恐慌」ともなれば、 労働者は自分たちのクビくらい自分たちで守りたいのである。 佐伯啓思先生、先生は今夜どんな気分ですか眠れそうですか。 『「恐慌」と書いて、佐伯啓思が売れるよ。』という一行を、 先生に贈りますゆっくり寝んでください。 先生の本はきっと重版しますまたひっきりなしに書いてください。 夕刊に踊っていた見出しはこうだ、 『迫り来る恐慌の足音』(!) 私は「恐慌」という単語を久しぶりに目にした。 青春を思い出してまなじりが熱くなった。 貧乏な私は一尾五十円の秋刀魚を フライパンで焼いて二匹たいらげて 至極満腹になった。 (佐伯先生もきっと、本当はマルクスが好きなのだ。) (だってあんなにマルクスについて書いてるんだもん。) 「恐慌」と書いて、佐伯啓思が売れるよ。 「恐慌」と書いて、佐伯啓思が売れるよ。 |
冬が終わろうとしていた
起きていると鳴いているのは何の鳥なのか 曇りガラス越しに見える隣のマンションの壁が日で明るくなっている 目をつむるとどくんどくんと鼓動も聞こえる気がする 体調を見て外出もしようか 台所の白菜の葉の一枚一枚をぼーと見ていた |
二月
だんだん日が長くなっていく朝の 光がまぶしくて 私ははーっと息を吐く マフラーから洩れる白い湯気 今朝は早起きをしたので 散歩している川べり 川岸に群生している セイタカアワダチソウを見ている いまは冬枯れたままだけれども 私は目を瞑り、陽光を浴びていた ダッフルコートを抜けて 二月の冷気は染み透った |
ノスタルジー
倒錯した磁針が揺らいでいる だが私は不安ではない 剣竜の鱗が降り注ぐ 荒れた野末から 終末のように響いてくる 私は身を固め、 爆撃に耐えようとする (みんな罪なのか?) 溶けた硝子片さえもいまは冷え切り、 枯れた野菊の群の中にいる (きみがいない…) ここには来たことがある ここには来たことがない ここはふるい時代の、 私の郷里だ、光を浴びて 裸で転げ回った日だ 海も山も見えない、 ひどく寒い… みぞれのように降って来る鱗が 地面に当たって砕ける 淡い太陽が雲間から 野の向うまでを照らす 壊れるなら壊れてしまえ、 そいつはもうすぐやって来る 私は武装して待っている 待っている、きみを… |
狂れる
風貌が低く、 呼び入れていた 夕刻だった 草の繊維で手を切り、 あえいだ (さらに深くゆかねばならない…) 足下の砂が崩れた スニーカーが片方打ち捨てられている 見えない連れのために、私は 胸に火を擦った いなくなってしまう前に 無くなってしまう前に 鉄塔の影が浮んだ ここを越えていく 風がセスナの明るい 軽い音を運び、 世界は暗転してゆく… 私は「おう」と叫びもんどりうった 壊れていくのなら、はじめに 私から壊れていこう 夕刻の坂を転げ落ちていこう 夏から秋へ、 春から夏へ、 不安のように飛び交う虻を 連れよ、叩き殺せ 浮ぶ影がじりじりと暮れる 長い転生が始まる 筆写された本の 黒い頁をちぎり喰む… 「殴るなら殴れ」と私は 民衆に怒鳴っていたのだ |